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ぼくと中国
(No.853 2017.4.1より)
 
 映画監督 
山 田 洋 次

 ぼくは旧満州で少年時代を過ごした引揚者です。父親が満鉄に勤務していた関係で転勤が多く、ハルビン、長春、瀋陽、大連といった都市を転々として育ちました。大連の社宅は旧ロシア人街の煉瓦建ての家でした。石炭の燃えるペチカの側で日本から流れてくるラジオの落語番組を聞きながら、長屋の暮らしや熊さん八さんという面白い人物が日本にはいるんだと想像するのが楽しかったものです。
 敗戦後の暮らしは惨めでした。預金はすべて消滅した上仕事がまるでなく、日本人は売り食いするしかなかった。路上で着物や靴カメラ時計などを売ったり、石炭が買えなくて冬はストーブで本を燃やして暖をとりました。やがて引揚船が来て命からがら山口県の田舎に落ち着きましたが、一文無しの引揚者にとって戦後の日本の暮らしは満州時代に引けをとらないくらい悲惨だったものです。
 70年代になって徳間康快氏の肝いりで中国と日本の映画人の交流がしきりに行われ、ぼくは瀋陽や大連を訪れる機会がありました。日本の植民地だった時代に幼少期を過ごしたぼくは中国の人に恨まれるのではないかとまるで罪人のような気分でいたものでしたが、中国側の映画人は一笑に付して「それはあなたの罪ではない、日本帝国主義の罪です、周恩来がそう言われたのです」と慰めてくれたものです。
 そんなぼくの作品『家族はつらいよ』がこの度黄磊監督の手でリメイクされることについては格別の感慨があります。70年代の中国と日本の市民生活は服装から食物から町の風景から何もかもまったく違っていました。北京の大通りを自転車の大群が川のように流れる光景に圧倒された記憶がありますが、『家族はつらいよ』が昨年の上海映画祭で上映されたときには日本の映画館と同じように楽しげな笑い声が起きたのにびっくりしたものです。この作品で描かれるさまざまな事件、核家族、少子高齢化、無縁社会、熟年離婚からオレオレ詐欺にいたるまで両国がかかえる面倒な社会問題には共通する点が多いようです。グローバリゼーションということでしょうか。
 『家族はつらいよ』の中国版ができるんじゃないかな、と親しい中国のプロデューサーと語りあったのは昨年の春先でしたがこれがたちまち実現して秋口にはクランクインの運びになったそのスピードの速さには驚きました。今日の中国映画界がいかに元気があるかということのあらわれです。中国語のタイトルは『麻煩家族』というこの作品は4月には封切りになるそうです。今や中国はアメリカに次ぐ映画大国でその発展には目を見張ります。日本の映画がもっともっとこの国で上映されることを、そして映画を通じて共通の文化を持つ日本と中国が仲良くなれることを心から願っています。〈やまだ・ようじ〉




アジア・太平洋地域の音楽創作者をひとつに
(No.852 2017.3.1より)
 
 作曲家   都 倉 俊 一

 二〇一六年十一月二十八日、中国・北京で開催された「世界創作者フォーラム」の冒頭、アジア・太平洋音楽創作者連盟(APMA)の発足式が執り行なわれ、その設立と、私が初代会長に就任することが発表された。その後、アジア・太平洋地域の各国から集まった錚々たる音楽創作者が、著作権管理団体国際連合(CISAC)副会長で映画監督の賈樟柯氏や「北国の春」の作詞で中国でも良く知られる一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)会長いではく氏も見守る中、会場を埋めた人々の万雷の拍手を浴びて壇上に集結、その門出を祝った。
 思い起こせば今から三年前の十一月、当時JASRACの会長であった私が、オペラ作家で国際音楽創作者評議会(CIAM)の会長を務めるロレンツォ・フェレーロ氏に、CIAMの一員としてのアジア・太平洋地域を代表する音楽創作者の連盟を作らないか、と持ちかけられたのが始まりだった。
 インターネットの普及と共に音楽の楽しみ方は大きく変わった。今ではインターネットを通じて無料で、あるいは月々一定額を支払うことで、膨大な曲の中から自由に好みの音楽を楽しめる時代である。
 ところが、そのようなサービスを提供するグローバルな音楽配信事業者の成功とは裏腹に、私たち音楽創作者にもたらされる報酬は減少の一途を辿る一方、音楽創作者の権利を守る著作権制度を弱めようとする動きが各国で顕著になるなど、私たちを取り巻く環境は日々厳しさを増している。
 こうした状況に危機感を感じた世界各地の音楽創作者がCIAMの名の下に結束し、私がロレンツォ会長と会った時には、既に欧州、北米、南米、アフリカにそれぞれ連盟が設立されていた。
 もちろんこのアジア・太平洋地域においても、JASRACや中国のMCSC(中国音楽著作権協会)等著作権管理団体が音楽創作者の権利保護と適正な報酬の請求を目指し、日々努力を重ねている。しかし、世界全体からみれば、市場に対する音楽創作者の権利保護の水準は低いと言わざるを得ない。こうした状況を打開するためにも、この地域の音楽創作者自らが声を上げることが不可欠であることはだれの目にも明らかであった。
 このときから、この地域に音楽創作者の連盟を旗揚げすることが私の大きな使命となり、およそ二年間にわたる各方面への働きかけの結果、遂にAPMA設立のときを迎えることができた。
 今年、APMAはその大きな一歩を踏み出す。五月韓国・ソウルでの執行委員会や、十一月CIAM総会と合わせた東京での執行委員会・総会における声明の発表や各種イベントを通じて、私たちの声をアジアへ、そしてアジアから世界へ発信していけるよう、APMA会長として全力を傾ける所存である。<とくら・しゅんいち>




平和を誓う年
(No.851 2017.2.1より)

 日本中国文化交流協会副会長、俳優

  
栗 原 小 巻

 春節に当たり、謹んで、新年のお祝いをお伝えします。
 2017年が、日中両国の友好と、平和を誓う年になる事を願っています。
 日中両国民の相互の尊重と、一人一人の緻密な交流は、政治の息苦しさを圧倒します。
 これまで、日中友好に尽くされた方々は多くいらっしゃいますが、長谷川テルさんもそのお一人です。長谷川テルは、平和の実現に命がけで尽くしました。エスペランティストとして、戦火の上海、重慶にて、世界に、戦争の悲惨さを、ファシズムへの恐怖を、手紙で、詩で、作品として発言し続けました。わたくしは、長谷川テルさんの、ご著書を前にすると胸がしめつけられる様な思いをします。
 日中合作ドラマ『望郷の星』で、長谷川テル役を演じたご縁で、テルさんの遺児、長谷川暁子さんと知遇を得ることが出来ました。昨年12月に『松井須磨子』京都公演を観劇していただき、お話をする時間を作っていただきました。
 長谷川暁子さんは、心打つ作品『二つの祖国の狭間に生きる』を書かれ、関西の大学で、教育者として、若き学生たちの指導に当たられています。暁子さんにとって、テルは誇りであり、テルもまた暁子さんを誇りに思っているでしょう。日中友好の重い歴史を感じています。
 『松井須磨子』は、昨年夏の九州から始まり、11月に四国、12月に近畿と、56ステージ公演しました。10月には、日中文化交流協会60周年記念交流事業として、素晴らしい俳優でもあられる濮存昕さんのご好意で、北京菊隠劇場での公演が実現しました。尊敬する、唐家?先生、孫家正先生両先生のお心配りご決断、長い友人李華藝さんのご尽力、中国の皆々様のご協力があって、公演無事に終えることが出来ました。
 演劇公演の翌日、シンポジウムが開かれました。文化芸術に関わる出席者の皆様の一言一言が、胸に染み入りました。
 わたくしが、日中友好の歴史を学んだ『時は流れて』の著者であられる、尊敬する劉徳有先生も、ご出席下さり、ご発言に感動いたしました。
 劇中劇の細かい分析、松井須磨子が担った、社会的意味、女性の自立、独立、そして、わたくし自身の出演した、他の作品にも言及して下さいました。
 平和な時代の文化交流に、深く感謝しています。
 これからも皆様と共に、日中の友好に少しでも寄与できればと思っております。
 時代が暗転しないように。〈くりはら・こまき〉





新しい年に向かって

 (No.850 2017.1.1より)
 
日本中国文化交流協会会長

  黑 井 千 次


 
日中文化交流協会は、昨年の創立六十周年の節目を経て、次の新しいステージに向かって第一歩を踏み出そうとしている。
 この一年の交流は、長く育て続けて来た各界代表団の定期的訪中、同じく中国側代表団の来日、というこれまでの相互訪問という基本的な活動を維持、展開することが出来た。
 その上に、記念すべき年にあたって、栗原小巻氏(副会長)の一人芝居の北京公演、前年に続く総勢九十名に及ぶ日本の大学生の訪中と中国の大学生との交歓や意見交換、鑑眞和上像の東渡記念行事などが行なわれ、日本では、「漢字三千年」展の開催が実現した。
 日中両国の政治・外交関係が、領土問題や歴史認識をめぐって必ずしも滑らかには運んでいない今日、以前と同様の密接な関係を維持し続けるのにはそれなりの努力が必要ではあるだろう。しかし当協会のメンバーが中国の関係者と顔を合わせて語り合う時、そこにはかつてと変わらぬ親しみや温もりが漂っていた。これが六十年の歴史が生みだした力によるものか、とあらためて感じぬわけにはいかなかった。そして文化交流の営みは、政治や外交や経済の動きとは別なのだから、両国関係が滑らかに進まぬ時も積極的に活動を展開してくれ、といった協会外部の意見に接する度に、文化交流の力が、どこかで政治や経済の営みにも影響を与えるようにはならぬものか、といった夢の如きものが生まれてくるのを覚える。
 英国のEU離脱の動きや、アメリカの大統領選挙の動向などを伝えるニュースに接する度に、世界は今や大きく変りつつあるように感じる。地震や津波、原発事故といった大問題を抱える日本も、この先どう生きるか、を深刻に摸索せざるを得ない地点に立っている。そして中国も、様々な問題を抱いたまま、この先の進路を懸命に探っているかに見える。
 そのような時代、情勢、環境の中をどう生きるかは、国を超え、民族を超えて人類が取り組まねばならぬ課題であるに違いない。その中の一つの大切な繋がりとして、日本と中国の関係、結びつきは歴史の場で確かめられていくに違いない。
 日本中国文化交流協会の、六十年を経て新しく迎えるこの年は、希望に満ちているなどとはいえまい。しかしそうであればあるほど、希望を求め、希望に向かう道を探り続けることが求められているといえよう。その営みの一年がここに始まったのだ、とあらためて感じる。
〈くろい・せんじ  作家、日本藝術院長〉





 
人的交流が大切
(No.849 2016.12.1より)

 
  明治大学国際総合研究所特任教授

   川 口 順 子


 
今年九月、甘粛省の敦煌と陝西省の西安を初めて訪れる幸運を得た。日本経済新聞社の平田保雄顧問を団長とする訪中団に参加したもので、シルクロードの要衝であった二つの街が交流の要として、アジア発展のために如何に大きな役割を果たしてきたかを実感することができた。一週間にわたる楽しい旅は、私の好奇心を大いに駆り立て、敦煌と西安で実見した壁画や各種文物から、中国文化の多様性を肌で感じ、日本へ戻ってから西域の歴史をもう一度学び直したいと思ったほどである。印象的だった事を二、三記したい。
 西安で見た兵馬俑や陝西歴史博物館の唐代壁画は言葉で表現することができない位素晴らしかった。もう一つ心に残っているのが隋代建立の青龍寺(唐代に改名)である。空海が学んだ寺院で、その後の戦乱で焼失したという。国交正常化後、四国四県の人々が中心となって中国側に働きかけ、青龍寺が再建された。今では、四国八十八カ所の零番札所にもなっている。昔の交流が今の交流につながっていることはうれしいことだ。
 ユネスコの世界文化遺産になっている敦煌莫高窟では、四世紀から千年にわたって描かれた壁画群を見せていただいたが、その規模、内容は圧巻だった。数百年の眠りから莫高窟が再び世界に注目を浴びるのが、一九〇〇年の蔵経洞の発見によってであるが、日本では井上靖の小説や平山郁夫画伯の作品により、敦煌の魅力が知れ渡った。その壁画や仏像はインドやペルシャの影響が色濃く見られ、また奈良や京都に残る仏像や絵画とも相通じていた。インドで誕生した仏教は、中国、朝鮮半島、そして日本へと伝来し、各国固有の文化、習慣と融合し発展してきた。この仏教交流の流れは、千数百年という時を越え、今日に至るまで絶えることなく続いているのだ。
 私が初めて中国を訪問したのは通商産業省(現経済産業省)在籍中の八十年代初めで、自動車ではなく自転車の大群を目にしたことを鮮明に記憶している。その後、森内閣および小泉内閣において、環境大臣、外務大臣を拝命し、中国を何度も訪れるようになった。外務大臣在任中に唐家?外交部長及び李肇星外交部長と諸問題のやり取りをしたことが昨日のことのように思い出される。
 今回の訪中で、悠久な日中交流の歴史と文化交流の厚みを実感した。中国は国土の規模が大きく、異民族の侵略を何度も受けており、日本とは異なった歴史を有している。体制の異なる日本と中国が関係を良好に発展させていくためには、日中関係の観点からのみでなく広い視野で互いを見る相互の努力が必要であると思う。意見の不一致や互いの短所だけを取り上げるだけでは進展は望めない。一人でも多くの人が訪問し、両国の千数百年にわたる交流の歴史を認識し、心の触れ合いを持つことこそが重要ではないかと思う。<かわぐち・よりこ>



文化交流」の力
(NO.848 2016.11.1より)
 
日本中国文化交流協会理事
  日本女子大学教授


       成 田 龍 一

 
 はじまりは、2004年10月に篠田正浩団長のもと、上海、西安、北京を訪れたときからである。ともすれば政治に翻弄されがちで、経済的な効率を持ちだしてきた日中関係のなかで、「文化交流」をメインのゲートとすることの意義と重みとを感じた。
 以来、そうした姿勢を学ぶなか、日中間の「文化交流」の軌跡を辿る格好のシリーズに接した。今年3月から刊行された張競、村田雄二郎編『日中の120年 文芸・評論作品選』(岩波書店)である。日清戦争前後から現在までの日中関係を論じた、様々な書き手による「各種ジャンルの古典的資産」といえる80篇以上を選択し提供している。収録作家は、日中の比率がほぼ同数になるように工夫され、ここ60年に限っても、巴金、開高健、堀田善衞、武田泰淳、孫平化、張承志らの文章が並ぶ。
 全体は「共和の夢 膨張の野望」、「敵か友か」、「侮中と抗日」、「断交と連帯」、「蜜月と軋み」と時代別に全5巻で構成され、この間の日中関係の軌跡が端的に表現されるが、同時期の双方の文化人による文章をあわせ読むことにより、その対応関係――「交流」の様相がうきあがる。
 もっとも、実際にページを繰って行くと、両国の関係が決して一筋縄ではいかないものであったことがわかる。認識がすれ違い、噛み合わず、異なった姿勢が目につく。対抗や断絶もみられる。また、従来の思想史や文学史に登場してこなかった作家名が散見され、中国との関係を軸とした思想・文学が、なかなか主流となってこなかったことも窺い知れる。
 しかし、双方には、真摯な姿勢があった。たとえば、第5巻「日中国交正常化」の項には、中島健蔵、永井陽之助、衞藤瀋吉、竹内好、遠藤三郎、張香山の文章が収められている。そのなかで、中島は「未来に向かって胸を張って歩きだすため」「どうしても必要な反省」(71年)を説いていた。こうした姿勢が、他の日本側の論者にもみられる。
 だが、いまや、いわゆる「嫌中本」が溢れ返るまでに、事態は転変してしまっている。第5巻はタイトルに「軋み」が記されるほか、各章にも「陰影」「暗転」「揺れる日中関係」という文字が並ぶ。そうした状況であればこそ、いまこそ「双方の他者認識を総点検」(編集部「刊行にあたって」)する営みが求められよう。日中間の「文化交流」の厚みを知り、この財産をいまのものとし、さらに増していかなければならない。竹内好は「中国との講和に役に立つ資料集のようなもの」をつくろうとしたが、「いかにその種の文献が少ないか」を憂えている(72年)。歴史を学び、文化交流の軌跡を知ることの意味をあらためて説くのである。
 このシリーズで取り上げられている、中島健蔵、亀井勝一郎、井上靖、水上勉、司馬遼太郎、加藤周一、辻井喬、そして現会長の黑井千次らの諸氏が、日中文化交流協会の中心的な指導者であったことも重要である。協会が培ってきた信頼と関係の分厚さという財産をもとに、困難な〈いま〉の事態を相対化し、切り開いていくことが喫緊の課題ではないだろうか。〈なりた・りゅういち 近現代日本史〉




いま漢字を考える

(NO.847 2016.10.1より)

 京都大学大学院教授

      阿 辻 哲 次


 「漢字三千年」と題する展覧会が、まもなく開催される。さまざまな領域で、中国文化の神髄をあますところなく示す数多くの展覧会が、これまで日本各地でなんども開催されてきた。それらはいずれも、日中両国の相互理解に関して非常に重要な成果をあげるものであった。だが日中両国の文化的営為の根源に数千年の時間にわたって存在する「漢字」だけに焦点をあてたイベントは、これまでほとんど開催されたことがなかった。
 今回の展覧会は、その「漢字」だけに焦点をあてておこなわれる。中国人民対外友好協会と中国各地の博物館の協力を得て招来される主要な展示品には、最古の漢字である「甲骨文字」や殷周時代の「金文」、戦国時代の竹簡、文字が刻まれた兵馬俑、前漢の「馬王堆遺跡」から発見された帛書(絹に書かれた書物)、長安で逝去した若き遣唐使を悼んで作られた墓誌、則天武后が天地の神に捧げた純金製の祭文など、一つ一つあげていくときりがないが、これまでほとんど門外不出だった貴重な文物100点あまりが一堂に会するのは実に空前のことである。
 中国は文字の国である。そして日本も非常に早い時代に中国から漢字を受容し、それによって高度な文化を発展させてきた。しかしそんな中国や日本においても、漢字だけが勝手に一人歩きしてきたわけではない。漢字はいつの時代でも、人間の活動とともにあった。それは国家を統治する法律を記し、人々の生活に幸福をもたらすための制度や契約を記すのに使われた。漢字を使って数多くの書物が書かれて学問と科学技術が発展し、文学や書道・絵画などの芸術的領域においても漢字から高度な達成が生まれてきた。そして漢字がもつ役割と使命は、これからの時代においても、なにひとつ変わるところがない。
 第二次世界大戦がおわってからのアジアには、漢字は国家の進歩をさまたげる諸悪の根源だ、という議論があった。漢字廃止論の論拠のひとつに、漢字は機械では書けないという事実があった。その主張は、過去において確かに事実だったが、しかしそれは永遠の真理ではなかった。技術の急激な進歩とともに、今ではごく小さなコンピューターで大量の漢字を簡単に処理できるようになった。
 技術革新と社会の変化によって機械が漢字を扱えるようになるとともに人々の漢字に対する認識が変わり、漢字廃止論の前提はあっさりと崩れさった。こうして漢字は復権をとげた。しかし過去の伝統的文化へのまなざしを持たない復権は、底の浅い、きわめて脆弱なものとなるだろう。
 漢字の未来は過去の延長線上にある。その当たり前のことを、今回の展覧会はしっかりと気づかせてくれるであろう。〈あつじ・てつじ 特別展「漢字三千年」監修〉




「希望」の確かな芽生え
(NO.846 2016.9.1より)
 
日本中国文化交流協会理事
  洋画家

        
入 江  観


 
出発前夜、ホテルマロウドイン赤坂の広間は「若さ」で溢れていた。
 全国27大学から集められた90名の学生の訪中は、日中文化交流協会の実施する訪中団として異例のスケールであった。
 壮行会に出席頂いた程永華大使夫人でもある汪婉参事官から「日本の学生には客観的、理性的な中国観を作り上げて欲しい」との挨拶があった。それを受け、私は、日本の青少年が招かれるのは、中国側が若者同士の交流を重視していることの表れであり、政治的関係は常に不確定要因を避けられぬにしても、人や文化の交流を通じた両国民の心のつながりこそが重要であり、大切なことは「自分の眼」で「手触り」の中国を実感することであり、今回は、その貴重な契機となる筈であると述べた。
 北京到着後、二班に分かれ、北京師範大学と中国人民大学を訪問し、日本語学科の学生と交流を行なった。グループに分かれての話し合いは抽象的なテーマではなく、学校生活、VOCALOIDの中国における受容、日本のファッション誌の中国への影響、中国・日本の類似語の比較研究等々、日常的、身近な話題について話し合われたことが良かったと思う。日本棋院から推薦された学生による囲碁対戦も行なわれ、勝敗を超えた成果もあったようである。
 その日の夜、中日友好協会主催の歓迎会で宋敬武対外友好協会副会長から次のような歓迎の挨拶を受けた。
 「青少年は未来と希望であり、中日友好は若者により受継がれ、発展させられなければならない。私は代表団を迎えるたび、若者の真摯で、温かな交流の雰囲気に胸を打たれ、青春の活力や生命の炎を感ぜずにはいられない。両国の若者が相互理解を深め、友情を築き、友好の大木が成長し続けることを期待している」
 答礼に立ち、私は司馬遼太郎氏の談話を引用して、民族論や国家論だけのレベルで他の国を見ると間違うことがある、大切なことは「住民」の感覚で中国を見ることであり、それこそが各々の手で相手に触れることになる訳で、その機会を与えて頂いたことに心から感謝すると述べた。
 宴会の間、両国の学生が披露したパフォーマンスは、そのために取り繕ったものではなく、器楽演奏、日本舞踊、タップダンス、ストリートダンス等、各々の日常の中での修練の成果であり、見応えのあるものであった。昼間の討論に続き、日中大学生の交流の深まりは明らかであった。
 帰国後、協会に寄せられた感想文からは、参加者の一人一人が、メディアによる情報から踏み込んで、自分の眼で中国を見て、自分の手で中国の人々に触れた実感が確実に伝わって来た。個人的な交流も芽生えていることも確認でき、短時日の交流であっても、友好への確かな種が蒔かれたことは疑う余地が無い。
 出発前夜、若者たちの中に、私が感じた漠然たる思いは、「希望」というものであったことが明らかになった気がしている。 〈いりえ・かん〉






記憶から経験が失われる時
 (NO.845 2016.8.1より)


 作家
    中 沢 け い


中国からの留学生の姿が大学で目立つようになった。私が教員として勤務する法政大学にもたくさんの中国人留学生がいる。ここ十年ほどの傾向だ。出身地もいろいろで、雲南省から来たという学生もいれば、延辺出身だという大学院生もいる。それぞれに個性に富み、日本の生活をおおいに楽しんでいる様子を見ているだけで楽しくなる。総じてお洒落で、アニメやゲームなど日本の現代文化には旺盛な興味を示す学生も多い。その積極的な探求心は日本の学生にも良い刺激となっている。かつて、中国は日本からの旅行者さえ受け入れてなかったことを考えれば、時代を大きく変わったと言えるだろう。
 今年は戦後七十一年目である。戦後七十年の安倍首相談話がいかなるものになるのかが注目された節目の年よりも静かな終戦の夏が近づいている。戦後七十年と聞き、思い出したのは、私自身が高校に通っていた時分のことだ。もう四十年も昔のことになる。その時分には戦争中、中国戦線へ配属されていた先生たちが教壇にたっておられた。教室で戦争中の体験をお話になることはめったになかったが、それでも折に触れ、異国での戦争経験を話されることがあった。顎の下に入った銃弾がそのままになっているという先生もいた。中国文学を学ぶ学窓から、そのまま戦線に出て翻訳など仕事に従事した先生もいた。経験を語る時には声や表情に陰影がでる。ことさらに惨たらしさを強調しなくとも、聞く人の耳に伝わるものがある。
 残念ながら経験を語り継ぐことはできても、経験者の声や表情にこもった陰影までは受け継ぐことができない。昨今の日本では外国人を排斥するヘイトスピーチが繰り返されるようになった。戦争の経験を語ることができた世代がいた時代には考えられなような罵詈雑言、誹謗中傷が繰り返される。韓国人を対象としたヘイトスピーチが目立ったが、対象は韓国人には限らない。外国人全般に及ぶ。中国人もまたその対象となった。日本を愉快な国だと感じて旺盛に日本の生活を楽しんでいる中国人留学生が不愉快な思いをすることもあったに違いない。ヘイトスピーチはなまなましい経験の記憶が失われたところから生まれてくる。そこには経験が持つ陰影がまったくない。記憶の中に経験を深く宿した世代が、三十年前にはまだ多かったのだ。高校通っていた頃から四十年の歳月は暴力的で想像力を欠落させた人々によるレイシストを生み出した。
 私の世代には戦争の経験がない。それはこの七十年間、平和であったことを意味している。今や、その平和は繁栄という果実をもたらそうという時期を迎えた。繁栄という果実を熟させるためには、経験の記憶ではなく理知の力を必要としている。ヘイトスピーチ対策法が成立したのは、まさにその理知の力によるものだ。世界の中で日本が孤立しないための理知である。〈なかざわ・けい〉




『日本泉屋博古館巻』の
  中国での刊行にあたって
 (NO.844 2016.7.1より)

 住友商事株式会社名誉顧問
 公益財団法人泉屋博古館理事長
    宮 原 賢 次

このほど、豪華図録『日本泉屋博古館巻』が中国で刊行された。中国国家博物館が出版する海外所蔵の中国古代文物を特集した図録は、英ビクトリア・アンド・アルバート博物館に続く2冊目という。呂章申館長が主編となり、泉屋博古館所蔵の中国古代青銅器、書画等199点の図版を収録、丁寧な解説が付されている。四月に中国国家博物館で発表会が開かれ、泉屋博古館小南一郎館長が出席させていただいた。
 本書刊行のきっかけは2010年日本経済界訪中団参加に遡る。日本経済新聞社と日中文化交流協会が毎年実施している旅で、北京、上海、敦煌、西安を訪ねた。砂漠の大画廊と称される敦煌で莫高窟の壁画を鑑賞した夜、杉田亮毅団長を中心にメンバーが酒を酌み交わしながら、見聞の印象や夢を語り合った。医療機器分野で活躍しているメンバーは、アジアの未来を見据えた中国との医療交流をしたいと話された。経済関係で数多く訪中してきた私も、新しい分野で中国と交流ができたらと思った事を記憶している。その後、日中文化交流協会を通じ、中国国家博物館より泉屋博古館の「青銅器」をテーマにした交流の提案があり、11年9月に私と小南館長が中国国家博物館を訪ね、共同研究を進めていく事となり、その中で『日本泉屋博古館巻』刊行協力の打診を受けた。12年には協会の招きで呂章申館長ら同館代表団が来日、実務がスタートした。直後に尖閣諸島問題が生じ、心配していたが、中国側の御尽力もあり、この度刊行が実現した。両国関係方面の皆様に感謝の気持ちを表したい。
 泉屋博古館は、住友家15代当主、住友春翠が蒐集した美術品を中心に、1960年に京都の住友本邸敷地の一角に設立された。「泉屋(せんおく)博古館」の名称は、住友家屋号「泉屋(いずみや)」と、約千年前に中国で編纂された青銅器図録「博古図録」に由来している。当館収蔵の青銅器、書画、絵画、茶道具など国宝、重要文化財を含む美術品を季節にあわせ公開している。東京都港区に開設している「泉屋博古館分館」と併せ、来日する中国の方々にも鑑賞していただければと願っている。
 私は商社マンとして50年以上にわたり中国とのビジネスに携わってきたが、文化交流の面では、国際民商事法センターの会長という立場を通じ日中の法制度の相互理解のためのセミナー活動を長年行なっている。その御縁で昨年、中国パンダ保護研究センターの四川省雅安壁峰峡基地を訪問し、赤ちゃんパンダに命名する貴重な機会を頂き、私自身の名から「賢賢(ケンケン)」と名付けた。賢という字は賢いと同時に殖えるという意味があるそうで、中国の方からは喜んでいただけた。今後とも、経済と文化の両輪で、中国との交流を深めていきたいと思っている。  〈みやはら・けんじ〉





中国の曲芸と和の語り芸 楽しみな交流
 (NO.843 2016.6.1より)

  日本中国文化交流協会常任委員
  能楽師   
    
安 田  登


 中国から「曲芸」がやってくる。
 曲芸といっても、日本語の曲芸とはちょっと違う。中国語の曲芸は、語りと歌からなる「説(語り)唱(歌)芸術」、すなわち歌つきの語り芸をいう。「曲芸」という語はすでに五経のひとつ『礼記』にも見える。由緒正しい系譜をもつ芸能なのである。
 すでに本誌四月号で詳細が報じられたが、河南省の宝豊県で行なわれた曲芸の祭り、馬街書会に鑑賞訪中団の一員として参加した。だだっ広い麦畑に、しかし広さを感じさせないほどの多くの説唱芸人たちが荷台付きの車でやって来る。車の荷台を開ければそのまま舞台となる。昔懐かしい紙芝居のおじさんみたいだ。手作りの拡声器を用意し、ガンガン語り歌う。隣の拡声器の音と混じりあい(たぶん言語が理解できたとしても)、何を言っているのかは全然わからない。でも、それはあまり問題ないのだ。ここはお上品な芸術祭ではない。飯をかけた、己れの芸の見本市なのである。客はここに芸を買いに来る。気に入った芸人がいれば交渉が始まる。「俺の親父の長寿の祝いで語ってくれ」、「娘の結婚式で歌ってくれないか」などなど。演じる方も観る方も真剣である。
 昔、日本の辻で行なわれた芸人や説教師たちのエネルギーも、さぞかしこんなだったろうと想像しながら見ていた。
 そう。曲芸は、日本人の私たちには非常に近しい存在なのである。いや、近しいどころか、日本は曲芸、すなわち歌付きの語り芸がもっとも豊富な国のひとつなのである。古くは『平家物語』を語った「平曲」、さらにはそれに動きが加わった「能楽」。江戸時代には「義太夫」が生まれ、明治になれば「浪曲」が生まれた。さらにそのルーツを探れば、稗田阿礼の『古事記』誦習まで遡ることができるだろう。日本には神代の昔から、節付きの語り芸があった。
 しかし、歌付きの語り芸の発生が、中国が先か日本が先かなどということを考えることは意味がない。語りに歌がつくのは必然なのである。
 毛詩大序には「詩は志のゆく所なり。心に在るを志と為し、言に發するを詩と為す。情、中に動きて言に形はる。これを言ひて足らず。故にこれを嗟嘆す。これを嗟嘆して足らず、故にこれを永歌す。これを永歌して足らず、知らず、手のこれを舞ひ、足のこれを蹈む」とある。
 語りは歌になり、歌は舞になるのは自然の摂理だ。トークはラップになり、バースになり、コーラスとなり、そしてダンスになる。万国共通だ。
 むろん、文字を始めとして、多くの文化がそうであるように中国は日本の先生であった。馬街書会でのエネルギーをはじめ、私たち日本人が中国の曲芸の方たちから学ぶことはたくさんあるだろう。
 しかし、歴史の波の中で中国では消失してしまったものが、日本に残っているものもある。中国の曲芸師の方たちが日本のさまざまな語り芸に接したときに、そこから何を感じられるか、それをうかがうのも楽しみである。   
〈やすだ・のぼる 下掛宝生流〉





鑑真和上像の東渡
 (NO.842 2016.5.1より)

  日本中国文化交流協会顧問
  壬生寺貫主   
    
松 浦 俊 海


 日中文化交流協会の創立六十周年を記念して、このたび日中合同により同じ二体の鑑真和上像を中国で制作し、一体が和上東渡を今に再現するような事業が展開されていることは、私にとって無上の喜びであります。
 鑑真和上は千二百七十年も昔に中日友好の先駆けとなり、十二年の歳月と五度の挫折にも屈せずに初志を貫徹して七五三年に渡日を果たし、仏教のみならず多くの医薬や先端技術を日本にもたらされました。和上はその後の十年間に聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇始め多くの人々を教化して七六三年に七十六歳で遷化され、故国を遠く離れて日本の土となられたのです。和上の御廟は唐招提寺御影堂の東、苔の緑が素晴らしい林の奥にあります。
 和上遷化の直前に弟子達によって作られた肖像は、脱活乾漆造りで日本最古の肖像として国宝に指定され、重要文化財の御影堂に安置されています。
 和上が七五九年に創建されたこの唐招提寺は南都六宗のひとつ、律宗の総本山であります。
 かねてから私は、律宗寺院において宗祖の鑑真和上像を本堂でお祀りしている事が少ないのを懸念してきました。他宗派寺院の本堂では、本尊に次いで必ずや宗祖の像を安置しているのです。
 二〇一四年十月、日中文化交流協会による、「鑑真和上の中国での足跡を尋ねる旅」の中、揚州から和上が東渡の際に乗船された埠頭の前にある文峰寺と壬生寺が提携寺院として調印しました。今後両寺は、同一の鑑真和上像を安置して末永く共に和上の遺徳を偲んで顕彰し、日中友好親善の共同事業を計画、推進する事になりました。
 一九八○年四月、当時唐招提寺の森本孝順長老は前々年に来日した鄧小平氏に嘆願し、和上像を中国に「里帰り」させました。その時から、大明寺の鑑真記念堂前と唐招提寺の御廟の前に同一の灯籠が置かれて、両寺ではこの灯籠に毎日蝋燭の火を灯し続けています。それはともに和上の遺志を引き継いで行く誓いのしるしであります。このことにあやかって今回の鑑真和上像は寸分違わない同一のお像としました。
 またこれも鑑真和上が第十次遣唐使船で来日された故事から、KADOKAWA (角川歴彦会長)が二〇一○年の上海万博の際に復元建造された遣唐使船が提供され、鑑真和上像の乗船式が行なわれ、次にお像は中国の定期フェリー船「新鑑真号」により、上海から海路で大阪へという、和上東渡を再現する計画です。
 鑑真和上の遺徳により、「共結来縁」(共に来縁を結ばん)の絆が時空を越えて多くの人々と結ばれる事を切に願う次第であります。
〈まつうら・しゅんかい 唐招提寺第85世長老〉





国を超えた曲芸の交換を
 (NO.841 2016.4.1より)

  作家   
    
いとうせいこう


 二月下旬の六日間を中国で過した。まずは河南省鄭州、平頂山、そして江蘇省蘇州で。どちらも民間の芸能を聴く(見る)ためである。
 特に平頂山宝豊県では馬街村という場所へおもむき、土煙の舞う広場に続々と集ってくる全土の芸人たちの二胡、三弦、思い思いのサウンドシステムで歌い語る者の声に酔いしれた。芸人たちはおおむね土埃にまみれており、手作りの衣装に身を包む女性や子供の他にはまるで地の底から出現したかのような男たちばかりであった。
 曲芸、とくくられている。私たち日本人が想像するものと違い、それは歌であり音曲である。同行した能楽師・安田登氏、言語学者・金田一秀穂氏らの交わす言葉を盗み聴けば、「曲」とは雑多なことを指すようだ。つまり雑技団の雑である。
 とすれば、中国で体験することの出来た雑芸は、日本の寄席でいう色物、さかのぼれば種類の未分類な田楽のようなものかもしれない。いまだ生き残る中国芸人たちは儒教ベースの物語を伝え、『三国演義』のような文芸を語り(とはいえ、各々の訛りと古い言い回しのためだろう、現地ガイドにさえ、何割かしか聴き取れないのだそうだ)、軽く踊ってみせもする。ただし、馬街村は麦の新芽が出る旧正月のまっ盛りで、訪れる見物客(最大で二十三万人という)があちこちに移動するため、麦は踏まれる。強くなる。すなわちそれは農事なのだ。だからこそ私は田楽の起源を思ったのである。稲作ゆえの日本の水と芸能のイメージが、乾いた麦畑と砂塵の芸能とつながるのは大変刺激的なことだった。
 村では群衆の中で曲芸博物館を見学し、屋台の活気を味わい、数メートルごとに陣取る芸人たちの演奏、あるいは大ステージで披露される名人たちの楽曲を楽しみ、さらに宝豊県の中心にある新しいホール内で行なわれた漫才、名芸能、コントまで見ることが出来た。
 上海に戻って蘇州へ向かった私たちは、評弾と呼ばれるやはり語りと歌の学校や博物館を訪問し、ちょうどひらかれていたまさに中国版の寄席での演芸を堪能したし、中にまじって謡や朗読やその場で借りた弦楽器の演奏を日本代表として披露し返した。すると、カタコトの日本語をしゃべりかけてくる老人がいた。指を立てて誉めてくれる人もいた。浪曲師・玉川奈々福さんにも多くの観客が声をかけたようだ。
 まさに民間外交、それも行きあたりばったりのアドリブだらけの、しかし心のこもった芸の贈り物を私たちはし、中国の人々から同じように体当たりの返礼を受けたのである。
 これこそが「曲」というものだ、と蘇州の寄席で私は思った。雑であることは粗であることではない。形式から時にこぼれ落ち、伝えようのないものをとるものもとりあえず伝えてみせる。そこに雑の広がりがあり、思いもよらず伝わる何かがある。つまり私たちもまた曲芸団なのであった。
 是非とも今後も、国を超えた曲芸の交換をしていきたいものである。





文化の「交流」が初めて実質あるものに
 (NO.839 2016.3.1より)

 社会学者
   大 澤 真 幸


 
私は、昨年の11月4日から8日、日中文化交流協会代表団のメンバーに加えていただき、北京、成都、そして上海を駆け足で旅行する機会を得た。この旅行のひとつの目的は、団長の磯崎新氏が設計した建築を視察することにあった。私が、他のメンバーとともに見学することができた建物は、二つである。一つは、成都の空港から車で一時間半ほど郊外に行った大邑県にある建川博物館集落の中の建物の一つ。この集落は25もの歴史博物館の集合体で、一種のテーマパークである。その中の、なんと日軍侵華罪行館(日本軍の侵略を記憶にとどめる館)が磯崎氏の設計によるのだ。もう一つは、上海交響楽団音楽庁の建物だ。
 これらの建造物を見て、そしてまた建川博物館集落の樊建川館長をはじめとするこれら建造物を活用されている中国側の人々の我々への心からの歓迎を身をもって体験して、私は日本人としてちょっとした誇らしさや喜びを感じるとともに、ある感慨を抱かずにはいられなかった。私があらためて思ったことは、日中文化交流における極端な「貿易不均衡」をやっとほんの少し是正できるところにきたのだなあ、ということである。文化の「交流」がまさにその名の通りの相互性を獲得できるときが、やっと訪れたのである。
 文化交流という観点で日中間の歴史を振り返れば、中国から日本への「輸出」が圧倒的に勝っていた。日本は、中国から実に多くの「よきもの」を学んできた。例えば、こうして私が使っている文字も、中国から導入した文字を日本語仕様にカスタマイズしたことで創られたものである。その他、学問にしても、思想にしても、政治や法の観念にしても、日本は圧倒的な中国の影響を受け、中国をモデルとしてきた(それらは、日本に導入されたとたんに相当な改変を被るのだが)。逆に、日本から中国に輸出した文化的な要素はあっただろうか。率直に言えば、つい最近までほとんど何もなかった。中国の方が、文化的・文明的に圧倒的に先進的だったからだ。例えば、われわれ代表団は、この旅行中に、成都郊外にある都江堰を見学した。これは、始皇帝による中国統一の少し前に建設された水利施設である。川を人為的に分流させたり合流させたりすることで、ダムを使わずに水を巧みに管理しており、この施設は今日でも活きている。この施設が建造されたとき、日本列島は弥生時代のごく初期で、「日本人」は原始的な農業しか知らなかっただろうということを思うと、中国の先進性は驚異的だ。
 しかし、磯崎氏の建築を見ながら、やっと日本からも文化を「輸出」できるときがきた、という思いを私はもった。つまり、日本はようやく、ほんのわずかだが、文化の面で中国に恩返しできるときにきたのである。文化交流は、どちらかが一方的に学ぶだけのような状況では、決して創造的な結果を生まない。今や日中は、歴史上初めて、真に文字通りの文化の「交流」をなしうるときを迎えたのだ。
〈おおさわ・まさち 元京都大学教授〉





若者たちがつむぐ未来
 (NO.838 2016.2.1より)
 
  日本中国文化交流協会常任委員
     佐 川 光 晴

 
「皆さんにお願いしたいのは、自分の目で、今の中国の姿をよく見ていただきたいということです。そして、中国の大学生たちと積極的に交流してきてください」
 昨年の十一月二十二日、中国大使館の広間で、郭燕公使は日中文化交流協会大学生訪中団の団員四十六名に語りかけた。首都圏、中部、関西の十九の大学から集まった学生たちは女子が二十八名で、男子は十八名、中国に留学経験がある大学院生から、今回が初の海外という一年生までバラエティーに富んでいる。
 二十四日の午後、我々一行は北京にある国際関係学院を訪れた。中国教育部直属で、ハイレベルな国際交渉に当たるエリートを養成する大学だというので私はおっかなびっくりしていたのだが、迎えてくれた日本語学部の学生たちはシャイでおしゃれな若者たちだった。グループに分かれてのディスカッションのテーマも恋愛や部活についてといった穏やかなもので、我々と親しくなろうとする意欲が伝わってきた。学生食堂に場所を移しての交流夕食会では、日中の大学生たちはすっかりうちとけて笑いあっていた。国籍の違いや政府間の軋轢にとらわれない若者たち姿に、私は感激した。
 二十五日は飛行機で四川省に向かい、綿陽市にある西南科学技術大学を訪問した。こちらでも前日に倍する大歓迎を受けて、交流会では双方が歌や踊りを披露しあった。楽しい時間は瞬く間に過ぎ、午後八時に別れの挨拶をして建物の外に出ると、夜空にはまるい月が輝いていた。
「蜀犬、日に吠ゆる」の諺が示すように、四川省では滅多に空が晴れない。綿陽の夜空に月が出たのは、十一月下旬にして、今夜が今年初めてとのことだった。
「天も祝福してくれているわけですね」
 私は秘書の竹本さん、倉本さん、山本さんと二日続けての盛会を喜びあったが、日中の大学生たちは月を見あげるどころではなく、並んで写真を撮ったり、メールアドレスを交換したりと、バスが出る直前まで別れを惜しんでいた。
 一週間に及ぶ訪中の間、日本の学生同士も実によく話をしていた。異なる大学の学生と知り合う機会はあまりないうえに、中国を旅する緊張感がお互いをより親密にしたのだろう。大雪が降ったおかげで北京の大気汚染はまぬがれたが、二〇一二年の反日デモの記憶は生々しい。実際、中国人民対外友好協会は最大限の配慮で我々の安全確保に努めてくれた。程海波副秘書長をはじめとする皆様のご厚意に改めて感謝申し上げたい。
 訪中団に参加した四十六名の大学生たちは、短い期間とはいえ、中国の現実に肌で触れた。中国の各地で結ばれた若者どうしの縁からどんな未来が生まれるのか。大いに期待しつつ、私も創作に励もうと思っています。  〈さがわ・みつはる 作家〉




創立六十周年にあたって
  (NO.837 2016.1.1より)


  日本中国文化交流協会会長 
     黑 井 千 次


 今年は当協会の創立六十周年にあたる。この歳月は日本と中国との古来よりの交流の歴史を振り返れば、束の間であるとしても、人間でいえば還暦にも相当する節目の年である。
 そしてその間、建国以来の新しい中国を日本政府が認めようとせずに往来が容易ではなかった時期、文化大革命によって中国の国内が混乱していた時期、国交が正常化して様々な交流が花開いていった七十年代後半、その後も歴史認識や領土問題が生じ、この歳月も決して平坦なものではなかった。双方の政治や経済の変化もあった。それを顧みれば、よくぞ折々の困難や様々の障害を乗り切って今日まで来ることが出来た、と思わずにいられない。創立時、会員の会費で運営する民間団体のわが協会が、六十年も存続すると思った人は一人もいなかったのではあるまいか。
 今日の日中文化交流協会があるのは、協会の趣旨に賛同して支えて下さった会員の皆様の支持と協力、折に触れ協会の活動を支援して下さった各界、各層の方々、そして交流の相手方である中国関係方面の皆様の心温まる対応があったからこそである。この節目の年にあたり、それらの方々にあらためて心からの感謝の意を表する次第である。
 また、協会の先頭に立って指導された中島健蔵、井上靖、團伊玖磨、辻井喬ら歴代会長や役員諸氏の努力、創立以来一貫して歴代会長を支え続けた事務局長の白土吾夫氏、その白土イズムを継承している事務局の日々の仕事の積み重ねがあったことも忘れてはならない。
 ここ二、三十年ほどの間に、内陸と沿海部に発展の差はあるとはいえ、中国の人々の暮しの様相や街並みが激変している。昨今の両国関係の悪化にもかかわらず、中国からの観光客の激増の動向を見ても、両国の関係は質的に変化して来ていることがうかがわれ、そして今後も更にダイナミックな変化を遂げていくだろうことが予想される。そしてその動きの中で、文化の役割はますます重要になっていくに違いない。これまで六十年の交流の歴史は、今後も起きるであろう様々な困難や問題に対処する際の貴重なヒントになるし、また新たな交流を創造していく上での頼りになる財産ともなるだろう。
 人は変り、社会構造も変化していく。当協会も先人の精神を受け継ぎながら、時代の変化にしなやかに対応していく柔軟性が一層必要となるに違いない。
 今年、創立六十周年を記念する各種展覧会、各分野の代表団、訪問団の相互往来など、様々な事業・企画の準備が、関係方面の団体、個人の理解と協力を得て進められている。それらの一つ一つが成功し、文化交流の果実として稔り、更には貴重な歴史として今後に伝えられることを願わずにいられない。
<くろい・せんじ 日本藝術院院長、作家>





「望月望郷詩碑」建碑25周年にあたって
   (NO.836 2015.12.1より)

  一般社団法人日本書道院会長
  日本中国文化交流協会常任委員
     中 村 雲 龍


 
日中文化交流の先達ともいえる阿倍仲麻呂を顕彰する「望月望郷詩碑」を中国江蘇省鎮江市の風光明媚な北固山に建立したのは25年前の1990年のことであった。この碑は、日本書道院が日本中国文化交流協会とともに、中国側と協力して建碑したもので、碑額の題字を趙樸初中国仏教協会会長が、正面の碑文「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも」の日文を田中凍雲日本書道院会長が、中文を沈鵬中国書法家協会副主席が揮毫した。当時日本書道院副会長であった私と鎮江書道界の重鎮であった李宗海氏が碑の裏面に建碑記を担当した。日本側から119名が参加して盛大に行なわれた除幕式の情景が今でも目に焼き付いている。
 私ども日本書道院の田中凍雲会長が昨年11月に101歳で大往生された。本来なら今年は建碑25周年を盛大に祝いたかったのだが、田中前会長を偲ぶ会の開催などが重なって準備が充分にできず、日本書道院の30名余の有志を募って鎮江を訪れることとなった。日中文化交流協会には事前に鎮江市側との連絡をしていただき、中野暁専務理事に御同行いただいた。到着した夜に開かれた祝賀夕食会では、出席していただいた鎮江市人民対外友好協会の張国雲副会長、郭桂鳳副秘書長、石碑の設計者である王亜楠氏、北固山公園の責任者王智慧女史、そして曹松筠鎮江中国旅行社元社長と建碑前後の想い出や、今後の交流の抱負を語り合った。
 4半世紀が過ぎ、日本も中国も大きく変わった。今年10月初旬の1日足らずの鎮江滞在ではあったが、久しぶりの市街は他の中国の都市同様、高層ビルが林立し、別世界のように発展していて驚かされた。翌早朝は北固山に登り、白い大理石の「望月望郷詩碑」と久しぶりに対面した。歳月の経過で一部の刻された文字の色が褪せてはいたが、逆に風格を醸し出していた。
 私ども日本書道院は昭和27年(1952年)の設立以来、書芸術の故郷中国との交流を促進してきた。その交流の一大事業として奈良時代の遣唐留学生である阿倍仲麻呂を顕彰する「望月望郷詩碑」を建立した。仲麻呂は中国では晁衡/朝衡の名で知られ、科挙に合格し唐朝において諸官を歴任、玄宗に仕えるほどの高官に登った。日本への帰国を果たせずに唐で客死したが、「天の原ふりさけみれば春日なる~」の歌が残されており、千数百年後に生きるわれわれの胸にも当時の望郷の心境が伝わってくる。李白、王維ら数多くの唐詩人が残した漢詩からも仲麻呂との親交の深さを窺い知ることができる。この詩碑が今後とも日中友好の象徴として一つの役割を果たしていくものと願って止まない。5年後には、書道作品の交流展を開くなど、ぜひ建碑30周年を盛大に行ないたいと思っている。<なかむら・うんりゅう>





悠久の時を越えて(NO.835 2015.11.1より)


 日本中国文化交流協会副理事長
 東京藝術大学教授 
     永 井 和 子 


 
朝十時五分羽田発―十二時五分上海着。中国は本当に近い。そう、入口までは―。そこから計り知れない広大な中国が広がっている。今回はどんな中国と出会うのだろう・・・。
 旅の第一歩は上海博物館。何回観ても圧巻である。今回は範囲を絞り、じっくり見る事にした。時を越えて残されて来た文物の素晴らしさに改めて感動すると共に、これらを創った人々の事に想いを馳せていた。当然その時代に日常使われる必需品として、あるいは生活を彩る装飾品として創られたものであろう数々の品を通して、当時の人々の呼吸や美意識を感じ、正に時空を越えて私の思考や感性が遊ぶ楽しいひと時となった。
 また、現代最新建築の代表とも言える上海交響楽団音楽ホール(二〇一四年オープン、設計・磯崎新当協会顧問。音響・豊田泰久氏)を参観。オーケストラの本拠地であり大・小二つの演奏会用ホールを有する。地下四階、地上二階。広大な敷地の立地由、地下と言っても採光充分な視界も広がる緑の空間があり、地下に降りている感じが全くない。その地下部分にオーケストラのリハーサル室が見事に完備されている。上海交響楽団は一八七九年設立のアジアで最も歴史ある楽団の一つである。在りし日の團伊玖磨先生(元当協会会長)がこのオーケストラを指揮し、御自身作曲のオペラ「夕鶴」公演(一九七九年)をこの地で行なった話を思い出した。つう役は伊藤京子(当協会副会長)、中澤桂両先生。国交回復してまだ浅い時代の先達方の熱意を想像した。我が師でもある伊藤京子先生に今回の旅で厦門を訪れる旨をお伝えした所、先述の「夕鶴」公演の折、子供の役は現地中国の子が担ったが、その指導に当たった指揮者の鄭小瑛女史が厦門在住と伺った。残念ながら今回はお会いする事は叶わなかったが、目に見えずとも様々な所に息衝いている人と人との関わり、繋がりを感ぜずにはいられなかった。
 旅の半ば、童心に帰り心底楽しんだ場所がある。厦門文化芸術センターで中国漳州木偶劇団の布袋木偶劇を鑑賞した事だ。小さな展示室の様な部屋にひっそりと、間口一間程の可愛らしい舞台が赤い緞帳を降ろして私達を待っていた。人形を扱う点では日本の文楽に似ているが、文楽の様に一体の人形を二人、三人がかりで操るのではなく、一体の人形を正に一人が五本の指を駆使し、両手で巧みに人物を表現する。この日は『水滸伝』から「大名府」の物語。門番の役人を演じた庄陳華氏は国家一級俳優で国家無形文化遺産である布袋木偶劇を継承する国宝級の方である。御年七十一歳。観劇後に人形を持たせて頂き、指を入れ、庄陳華氏が直々に扱い方を教えて下さった。
 小柄ではあるが、肩や腕の筋肉は相当に強固な印象であった。私が巧みに動くその指に触れたくて握手を求めると、快く応じて下さった。指の先は固くタコの様な部分があったが、意外にもその手の平は柔らかく温かだった。庄陳華氏のチャーミングな笑顔と相俟って、ほのぼのとした心持ちでお別れした。実はこの日の観客は我々日中文化交流協会代表団の五名のみ。普段は隣の市に住む庄陳華氏は、何と私達の為にこの日この場所に出向いて下さっての実演だった。本当に貴重な体験であり心に感動を刻む出会いとなった。
 この誌面に書き切れない沢山の歴史的文物に触れる中で、悠久の時を越えて人々の息遣いが伝わってくる、そして今を生きる人と人とが国を越えて触れ合う素晴らしさを再確認した旅であった。〈ながい・かずこ 声楽家〉





中国青磁の故郷 龍泉を訪ねて
  (NO.834 2015.10.1より)


  日本中国文化交流協会常任委員     
     入 江  観 


 
今回の旅が、かねて再訪を望んでいた杭州から始まったことが嬉しいことであった。
 浙江省外事弁公室が用意してくれたホテルは緑豊かな木立に囲まれ、繁忙の日本から逃れるよう出かけた私達は、いきなり安らぎの中に迎えられた思いであった。その上、翌朝、西湖の湖上は霧雨に包まれ、私たちは夢幻の世界に誘われつつ「青磁の故郷」への旅は始まった。
 今回の訪中の成果は何と言っても、中国陶磁の、とりわけ龍泉窯に関する気鋭の研究者である出光美術館の徳留大輔氏が同行してくれたことに負うところが大きかったと言わなければならない。参加者の全員が、徳留氏の懇切な説明を通して、青磁に対する知見を深めることが出来たと思う。私自身、単純に澄んだ緑青色と決めつけていた青磁が実は、黄褐色を帯びた越窯のもつ味わい深いもの等、多様で幅の広いものであることを教えられた。
 実際、古い登り窯跡に佇んでいると、古の工人たちが生き生きと立ち動く姿が想像され、彼等の一人一人に尋ねてみれば名前の無い人は居ない筈だが、彼等の作った物に、彼等の名前が残されてはいない。名前が消えてなお残されたものが、今私たちの前にあることの意味は、現代の芸術の有りように厳しい示唆を与えることにもなり、粛然たる思いに駆られるばかりであった。
 これは、中国に限ったことでもなく、陶磁器に限ったことでもないが、しばしば、優れた芸術作品が生まれる背景には、権威、権力の保護があったことは、まぎれもない事実であるが、「形」をつくることに於いて、作者は自由であったことも事実であろう。
 唯、青磁の故郷を巡って、気づいたことは、そこで生まれた超一級の作品は、その故郷にとどまることが出来ず、故宮博物院やその他、外国の博物館に旅立たざるを得ない皮肉な宿命を持っているということである。又、中国工芸美術大師の称号を持つ二人の作家のそれぞれ美術館を備えた仕事場兼住宅を訪問し、その宏壮さに驚かされたこともあったが、そこでも青磁の伝統は見事に受け継がれていることが理解された。
 本来、器は使われるべき役割りを背負っている筈だが、今回、私が龍泉の博物館で出会った、平明な中に深さを湛えた葵口碗等、時間が許されるならば、いつまでも向い合っていたいと思わせる力は一体、何なのかと思う。移ろい易い政治とは別次元で、私たちの文化交流の本質的な基盤は、こういうところにあるのだと確認せざるを得ない思いであった。
 今回の訪中にあたって、浙江省各地の関係者の方々に温かいもてなしを頂いたこと、とりわけ外事弁公室の陳福弟、陳燕虹両氏には、上海の空港の出迎えから、見送りまで、全行程にわたって、終始、誠意に充ちたお世話を頂き、私たちの旅を実りあるものにして頂いたことに、心からの感謝の意を表したい。
〈いりえ・かん 洋画家〉






優れた文化の共有を(NO.833 2015.9.1より)


  日本中国文化交流協会常任委員
  東京藝術大学社会連携センター長
      宮 廻 正 明



 
寧波市人民対外友好協会のお招きにより日中文化交流協会代表団の団長として寧波を訪問した。代表団は私のほか、東京藝術大学社会連携センター所属の4名、中野暁専務理事で構成された。1989年6月に絵画の取材旅行で訪れた時とは隔世の感があったが、天童寺付近の村落は昔の面影が残っておりとても懐かしく感じられた。
 今回のきっかけになったのは、4月末に寧波市人民対外友好協会の一行が東京藝術大学の視察に訪れたことだった。同大学社会連携センターで作品の再創作として開発している最新のデジタル複製技術を見て頂き、そこで今後このような技術を使った文化交流が可能ではないかとの提案を受け、寧波で試作品でのプレゼンテーションを行なう機会を得たのだ。
 もともと中国仏教の聖地である寧波は、唐代に明州、南宋では慶元府とも呼ばれ、遣唐使や日宋貿易・日明貿易の拠点となり、日本には大きな影響を与えたゆかりの深い町だった。多くの文化的遺産が日本側でも享受されており、中でも仏教絵画や南宋北宋の絵画は、日本文化の根幹をなす精神性にも大きな影響を与えている。また世界的に見てもその芸術性の高さは卓越したものがあり、これからの中国文化が世界に及ぼす影響力は計り知れないものがある。しかしながら、その発祥の地寧波の貴重な作品は、中国各地または世界各地に拡散してしまっている。寧波で生まれ育ったこの世界最高レベルの文化を寧波に戻す方法はないものかと模索した。
 そこで、東京藝術大学が開発し、特許を取得した技術によって南宋時代の紅白芙蓉図(国宝)の再創作画(高精細複製画)を作り、寧波を訪問することにした。この作品は東京国立博物館に所蔵され、データが公開されている。東京藝術大学社会連携センターではこれらのデータを利用し、同一素材(絹本)での複製画の制作を試みた。同センターには保存修復の技術や古典技法、表具の技術に卓越した人材が揃っており、ほぼオリジナルと同等の作品を作り上げることに成功した。これまではオリジナルと同一のものを作り出すことはタブーとされていたが、この技術は悪用されない限り国を越えて多くの人々と優れた文化を共有することが出来る。そういった意味では、大変意義のあることのように思われる。
 寧波では、天一閣博物館、寧波市美術館、私立華茂美術館、沙孟海書学院、寧波画院を訪問した。持参した絹本、板絵、油絵等の複製画を実際に見て触ってもらい、実感を味わうという具体的な体験をすることにより若い研究者にも大変興味を持ってもらい、貴重な意見交換が行なわれた。
 訪中を通して、両国の文化交流の充実が今後一層大切であること、日中で協力していくことを確認した。特に新しい技術を使った文化財の再生事業は、文化財の共有という意味でも両国の発展に大きく寄与するものと期待してやまない。
〈みやさこ・まさあき 東京藝術大学文化財保存学専攻教授、日本画家〉






今からでも遅くはない
 (戦後70年特集NO.832 2015.8.1より)


  日本中国文化交流協会副会長・理事長
      池 辺 晋 一 郎



 
残念ながら先年逝去された元駐中国日本国大使・中江要介氏にはいくつもの名言があるが、今も印象に残っているのは次のような言葉。「日本が近隣諸国に対し戦後すぐに謝罪を行なっていたら、東アジアのその後の展開は違ったものになっていただろう」。
 僕がこの小文を書きかけたころ、本誌の前号(No.831)が届いたのだが、その最初のページの井出孫六常任委員(作家)の文章を読み、実は驚いた。戦後ドイツの歩みかたについて、僕も書きかけていたからだ。従って井出氏と重複するかもしれないが、そのまま貫徹することをお許し願いたい。
 旧西独で1969~74年に首相の地位にあったヴィリー・ブラント氏は70年にポーランド・ワルシャワのゲットー英雄記念碑の前に跪き、花を捧げた。
 その次代の首相、ヘルムート・シュミット氏が国連で行なった演説の大意はこうだ─「戦後、長い時が経った。しかしドイツが再び過ちを犯さないと確約するには、まだ、短い」。 
 そして昨年6月、北フランスでの「ノルマンディー上陸作戦70周年式典」にヨーロッパ各国首脳が集った。何とそこに、現独首相アンゲラ・メルケル氏も並んでいるではないか。テレビの映像に、僕は驚愕した。
 メルケル氏は、イスラエルへ赴き、ユダヤ人への謝罪をすでに行なっている。先の大戦に関し、「すべてのドイツ人は永久にその罪を負う」という発言もしている。
 驚愕と同時に、たとえば中国のどこかで終戦○周年記念行事が挙行されるとして、そこに日本の首相が列席している図を想像できるか、と僕は自問していた。
 閑話休題。僕は、日本のベテラン女優たちが毎夏につづけている朗読劇「夏の雲は忘れない」の音楽を担当しているが、「ヒロシマ・ナガサキ1945年」というサブタイトルを持つこの劇は、被爆児童の詩を中心に読まれるもの。すなわち、被害の記憶である。
 いっぽう僕は、84年に作曲した混声合唱組曲「悪魔の飽食」に全国の人が集い「全国縦断コンサート」をつづけている際の指揮者でもある。国内のみならず、すでに2度の中国を含む6度の海外公演を成功させてきた。この9月にはハルビン郊外の「731記念館」リニューアル式典に招かれ、300人近くがそこで歌う。これはすなわち、加害の記憶だ。
 被害と加害の双方の記憶を語り継がなければならない。このバランスは極めて重要だ。加害の罪を語ると自虐的史観という人がいるが、謝罪が自虐につながると考えることこそ奇妙だと僕は考える。
 戦後70年。戦後の史観に恒久的でよりよいバランスを与えることが、今年に課されていると思う。前記の中江氏はバレエ台本作家という文化人で、僕は3作でコンビを組んでいる。かつて日中国交回復が卓球で始まったように、文化が日本及び東アジアに正しい史観をもたらす芽になるかもしれない。中江氏が生きていらしたら、「今からでも遅くはないよ」とおっしゃるのではないか、と思うのである。〈いけべ・しんいちろう 作曲家〉





前事不忘 後事之師(NO.831 2015.7.1より)

  日本中国文化交流協会常任委員
  作家 
      井 出 孫 六 



 
敗戦から50年目の1995年8月、元西ドイツ大統領ワイツゼッカー氏が来日し、氏の講演を聴く機会があった。彼はドイツと日本の比較から入った。両国は共に第二次大戦の敗戦国で、戦後いち早く復興し共通点も多いが、異なる点をあげると、ドイツは大陸国家で西欧のまん中に位置し、9カ国と隣りあい、大戦中はドイツが占領した。日本は海に囲まれた海洋国家で、国境のない点で英国に近く、先の大戦では大陸や他国の島々を戦場とした。
 敗戦後のドイツは9カ国の隣国と国交を回復する外交とそのための賠償に全力を傾けるほかない時間が長かった。最も残酷な戦禍を及ぼしたポーランドには、全権団は12月の雪降りしきる大地にひれ伏して謝罪し、その姿にポーランド国民の怒りは柔らいだ。もちろん真摯な謝罪には心からなる賠償金も伴ったと、元大統領は念をおすように披瀝した。
 敗戦から70年目の今年初め、雄弁家の元大統領ワイツゼッカー氏の訃報を知ったが、3月にはドイツのアンゲラ・メルケル女性首相が来日し、東アジアで日中韓など近隣諸国の緊張が高まっている現状をめぐり、「大切なのは平和的な解決策を見いだそうとする試みだ」と述べていることを新聞で知った。ワイツゼッカー氏の講演は炎暑の8月7日だったが、わたしは信州の山から降りてきて拝聴した。だが今年は体調がすぐれずメルケル首相のお話を直接聴けなかったのが残念だ。
 今年は戦後70年の刻まれる年だ。この得難い機会に、東アジアの国々の首相が、たとえば8月15日を期して、沖縄でも、広島でも、東京でもよい、一堂に会する。そういう東アジアの平和会議を安倍晋三氏が主催しようとすれば、わたしは信州の山から傍聴のためぜひかけ降りてこようと思う。
 メルケルさんは「他の地域にアドバイスする立場にはない」と慎ましやかなことばのあとで、ドイツが欧州で和解を進められたのは「ドイツが過去ときちんと向き合ったからだが、隣国(フランス)の寛容もあずかって大きかった」と語ったそうだが、過去ときちんと向き合ったことが、フランスの寛容さを引き出した。そのことが肝要だ。
 戦後70年という年の刻みはおろそかにはできない。戦争体験者は年々その数が少なくなってきている。わたしがきちんと向き合うべき過去は1931年、正確にいえば9月の誕生の日から始まっている。1931年9月18日当時、旧満州に駐屯する日本の関東軍司令部にあって3人の参謀によって企てられた満鉄沿線柳条湖の線路爆破から満州事変とその後の15年戦争が始まった。わたしは誕生の日から幼稚園、小学校、国民学校、そして中学2年の日まで戦争とともに育ったことになる。今年は戦後70年といわれるが、向き合うべき過去はさしあたって、70年をさかのぼったそれ以前の15年の歳月であることを肝に命じなければならないと思っている。〈いで・まごろく〉





父、辻井喬の「第二の祖国」を訪ねて
  (NO.830 2015.6.1より)


 セゾン現代美術館代表理事
    堤 た か 雄



 
日中文化交流協会の会長を務めた父、辻井喬には、「第二の祖国」と言える国が二つあったと思う。一つは、妹であり私が敬愛してやまない叔母、堤邦子が四十年生きたフランスであり、もう一つが中国である。理由は、文化のために生涯を捧げた父が、中国の「文化の力」に畏敬の念を常に持ち、深い興味を抱いていたからだ。亡くなる三年ほど前から病気を繰り返していた父が生前最後に訪れたのも中国であり、それも詩人辻井喬が初めて受賞した「室生犀星賞」と縁のあるハルピンの地であった。
 次男である私が中国を訪問したのは今回が四回目だが、前回が父の訪問に母と同行する形で訪れた二〇〇二年であったから、十三年ぶりの訪中になった。「日本文化の祖国」はどんな変化を遂げているのか、期待に胸を踊らせながら北京首都空港に降り立った私は、空港の近代化に驚いたのも束の間、市内に向かう途中に立ち寄った「宋庄芸術村」の素晴らしさに驚嘆した。ここは約二十年前に価格が安いという理由で数名の画家が家を買って住み始めた農村の一部で、現在では八千人ぐらいの芸術家が一千平米以上のアトリエ兼住居を構え、活発に制作を行なっているのだ。その制作環境は日本より遥かに恵まれている印象を受けた。
 翌日はまず中国文学芸術界連合会で文芸評論家の郭運徳氏、中国作家協会で鉄凝主席と会見したが、父が如何に両氏と親密な関係にあったかを認識した。特に鉄凝主席にはご自身の小説も含む文芸誌『人民文学』のフランス語版を頂戴した。その後、中国人民対外友好協会の李小林会長を表敬訪問した。宋敬武副会長、王秀雲中日友好協会副会長が同席し、日中両国が芸術文化を通して真の友好関係を築くことの重要性について有意義に話し合った。会見後は旧国営工場跡地の「798芸術区」で中国現代アートの勢いを目の当たりにした。 
 続いて訪問した上海では、これも工場跡地の現代アート地区である「M50」を訪問した。四万平米の広大な敷地にギャラリーがひしめき、素晴らしい作品の数々を鑑賞した。印象深いのは建物の外壁に沢山描かれたグラフィティだ。イギリスのバンクシーなど、昨今の現代アートの世界では当たり前になっているが、それでも「M50」のグラフィティには興味をそそられた。また、上海市対外友協にも歓迎夕食会に招かれ、遇建浩、朱政寧両氏や父と親交のあった女性作家、上海市作協主席の王安憶氏らと歓談の一時を過ごした。
 今回は短い滞在ながら、錚々たる方々と日中の文化交流と友好について前向きに話し合うことができた。私の専門である現代アートに関しても、中国の現状をつぶさに観察することができた。特に近年の日本ではあまり出会えない「メッセージ性の強い」素晴らしい作品にも出会えたことは大きな収穫である。貴重な機会を頂いた日中文化交流協会と中国人民対外友好協会には感謝の気持ちで一杯である。今後、父の遺志を受け継ぎ、日中文化交流の一助になりたいと思っている。〈つつみ・たかお〉





『周斌回想録』を翻訳して
―戦後日中関係を俯瞰できる「歴史の語り部」の証言 
  (NO.829 2015.5.1より)


 日本中国文化交流協会常任委員
 同志社大学大学院教授

       
加 藤 千 洋



 
中国外交部の日本語通訳として長年活躍した周斌氏の回想録『私は中国の指導者の通訳だった―中日外交最後の証言』の日本語版を、このほど岩波書店から上梓した。先に香港で繁体字版が出版されていたが、中国国内での簡体字版はまだ実現していない。歴代の指導者が数多く登場する内容であり、関係部門の綿密な審査が長引いていることも、その一因ではないか。
 回想録執筆は2012年秋の日中国交正常化40周年を迎える少し前に思い立ったそうだ。「歴史を正しく伝えたい」との思いからだったという。当時は2年ほど前に起きた中国漁船と海上保安庁巡視船の衝突事件をきっかけに日中関係が悪化し、さらに12年夏の日本政府による尖閣国有化によって、40周年記念行事のほとんどが中止に追い込まれてしまう。こうした暗雲を目の当たりにして、1972年の国交正常化交渉で主に外相会談の通訳を担当し、難航した共同声明作りにも加わった経験を持つ周氏としては、何か期するものがあったのではないだろうか。
 回想録は半年ほどで書き上がった。周氏は優れた記憶力の持ち主だが、重要な通訳の後には個人的なメモを残した。ご本人は「記憶違いもあるかもしれませんが」と謙遜するが、こうした記録と記憶が興味深い原稿に結晶したのだろう。
 私は周氏が外交部を離れ、人民日報社に在職した1980年代後半に面識を得た。回想録執筆を知り、日本語版にする価値ありと判断し、すぐに翻訳(共訳者は中国の若手日本研究者、鹿雪瑩さん)を提案した。邦題を『私は中国の指導者の通訳だった―中日外交 最後の証言』としたのは、周氏が文字通り毛沢東、周恩来、鄧小平らの通訳を何度も担当しており、中国の革命第一世代を肌で知る人物の「最後の証言」になるだろうと考えたからだ。
 80歳の今日まで、周氏の1時間以上におよぶ通訳機会は約1万回にのぼる。担当した日本の首相経験者は、北京大学東方言語文学学部を卒業した翌1959年に相次ぎ訪中した片山哲と石橋湛山が最初で、21世紀の小泉純一郎、福田康夫、鳩山由紀夫、菅直人に至るまで20人に近い。通訳人生のハイライトとなったのは前述の北京における田中角栄・周恩来の国交正常化を巡る首脳外交だろう。
 こうした「歴史的な現場」を数多く踏むほど重用されたのは、言語能力の高さはもちろんだが、対日外交の司令塔であった周恩来と実務責任者の廖承志の信頼を得ていたからだ。それだからこそと思うが、周氏は外交交渉だけでなく幅広い民間外交、文化・スポーツ交流の現場にも登場している。回想録で紙幅が割かれる日中文化交流協会理事長の中島健蔵、作家の有吉佐和子らとの交遊の思い出からは、単に通訳という職務を超えて、周氏が日本各界の人々と心からの付き合い方をしていた姿が浮かび上がる。
 本書の後記にこうある。
 「願わくは近年両国間に生じた不正常な情況をできるだけ速く終わらせ、一九七〇年代の国交正常化と日中平和友好条約の『原点』に立ち戻り、確実に『戦略的互恵』を実現する正しい方向へ向かって前へ進みたいと思う」。
 戦後70年、日中関係を俯瞰できる「歴史の語り部」の言葉だけに重く受け止めたい。 <かとう・ちひろ>






中国とデザインで繋がっていく(NO.828 2015.4.1より)


 日本デザインセンター代表取締役社長
     原  研 哉 



 
中国との付き合いで、深く印象に残っているのは、二◯一一年から一二年にかけて北京、秦皇島、上海の三カ所で開催した個展である。同じ規模のことを日本でやろうと思っても施設が思い当たらない。この個展の開催に、僕は多くの意欲とエネルギーを注ぎ込み、驚くほどの反響と動員を得ることができた。
 なぜ、日本でもやらないような規模の展覧会を、中国で開催することに情熱を覚えたのか。それは、この地の歴史文化の厚みと多様性、人の数、さらには、かつてあれほどの先進性をもって世界を席巻した大国の、近代化に乗り遅れたゆえの、歴史文化からの乖離と相克に思いを馳せつつ、むしろそこにこの国の潜在力と可能性を感じたからである。台北の故宮博物院に展観されている歴代中国の所蔵品に触れると、今でも自分の中に確かに存在する文化遺伝子がざわざわとさざめくのを感じる。
 北京を訪ねるようになったのは、二◯◯◯年の前後である。北京オリンピックのシンボルマークの設計競技に応じ、最終選考に残ったことで中国はぐっと近くなった。中国初のオリンピックのマークを日本人デザイナーが勝ち取ることは至難である。それでも僕は中国五輪について真剣に考え、応募した。結果は次点となり、優秀賞をいただいた。この経緯から中国のデザイン界と多少の縁ができたように感じている。シンボルマークの発表会は天壇で盛大に行なわれ、授賞式が北京飯店で催された。北京飯店前の大通りがまだクルマで埋め尽くされる前のことである。
 同じ頃、自分の作品集が中国で初めて刊行された。依頼を受け、版下を送ってから二年ほど音沙汰がなかったが、無事出版できれば幸運と鷹揚な気分でいたので、出来上がった作品集を手にした時には、中国との関係が深まっていく予感がした。
 それを契機に大学で講演を依頼されるようになった。美術系大学の学生数も膨大で、千人を越えそうな収容力のある会場が、立錐の余地なく学生で埋まり、瞳を輝かせて話を聞く学生たちの熱気も心の奥に響いた。やがて、自著の翻訳が繁体語で出はじめ、それが野火のように読まれ広がるうちに、一度是非この地で、充実した個展を開催し、中国の学生や若いデザイナーたちにデザインの本質に触れるメッセージを送り出してみたいという気持ちが高まっていったのである。
 当初、会場候補は北京の中国美術館であった。黄色い屋根が翼を広げる鳥のように反り返った中華人民共和国風の建築。ここで文化の未来を標榜するデザイン展を開催するのも面白いと考えつつ、空間を精密に測量し、把握しはじめていた。
 その後、天安門広場に近い、アメリカ領事館の跡地で、現代美術が展観できるように再整備された施設での開催を打診され、その空間を見て、展覧会は構想から具体的な計画へと変わった。この現代美術館は中国美術館の分室に相当する。導入部の回廊を入れると四層に分かれる魅力的な空間。その全てを使って自分の作品とデザイン思想を、思う存分に展開してみようと考えたのである。
 現在では北京に事務所もでき、仕事を通しての結びつきが深まりはじめている。四年前、魯迅生誕百三十年の記念書籍を、中国の三聯書房と日本の平凡社が共同出版することとなり、造本デザインをお手伝いした。簡潔に極まった、赤い中国語版と白い日本語版。その本は思いがけず、ドイツの「世界で最も美しい本賞」を受賞した。
<はら・けんや>








 
もう一つの〝中国文学〟(NO.827 2015.3.1より)

  日本中国文化交流協会常任委員
  早稲田大学名誉教授
     岸  陽 子



 
昨年八月、北京で中国作家協会主催の第三回「中国文学の翻訳をめぐる国際シンポジウム」が開催された。
 主席の鉄凝氏をはじめ、莫言氏、賈平凹氏など中国の著名な作家たちと、アジア・アメリカ・ヨーロッパ・ロシア・中東など世界各国から招かれた中国研究者・翻訳家たちが一堂に会して、それぞれの国における中国文学の翻訳と受容の現状を紹介、さらには歴史や文化の差異に由来する作品理解の難しさ、原作の言語体系の解体と自らの言語による再構築という翻訳作業におけるさまざまな困難など、話題は多岐にわたり、前二回に比べて一段と交流が深められた感が強い。
 講演の演壇に立った莫言氏の「すぐれた翻訳がなければ〝世界文学〟は生まれない」という発言は、翻訳者たちの志気を鼓舞したが、それに続けて「翻訳者はなによりもまず原作の〝信徒〟となり、自らの〝情感〟を全面的に対象に投入すべきである。その上で訳者は原作にこめられた思想や情念を自らの言語に自由に置き換える権利を持つ。翻訳者は、まずは原作の〝信徒〟たれ、しかる後に〝叛徒〟たれ」と、翻訳におけるモチベーションの重要性を指摘した。
 私は、日本にはもっと翻訳・紹介されねばならないもう一つの〝中国文学〟――「満洲国」の〝中国文学〟があることを、梅娘(メイニャン)という女性作家の例を挙げて語った。
 梅娘は、日本と深くかかわり、その小説『蟹』が「大東亜文学者大会」で大賞を受賞したために、その後の人生を「漢奸」とされて苦しんだ作家である。のちに名誉回復され、一昨年、現役の作家として九十七歳の生涯を閉じた。私は梅娘文学の原型とも言うべき短編小説「僑民」を翻訳して追悼した。若き日、彼女は、かつて日本で「大陸雄飛」のブームを生んだ久米正雄の『白蘭の歌』を、原作の新聞連載を追いながら中国語に訳した。その直後に書かれた「僑民」には、『白蘭の歌』を翻訳した折の屈辱や苦悩が、ひそかにちりばめられている。
 中国でも「満洲国」の文学の研究が本格的に始まるのは八〇年代に入ってからである。あの時期の文学を中国現代文学史にどう位置づけるかをめぐって激しい論争が展開されたが、やがて一九九九年に『中国淪陥区文学大系』(全七巻)が刊行され、「満洲国」を含む日本支配下の文学が、苦渋に満ちた言葉で文学史の空白を埋めていくことになる(「淪陥区」とは満洲事変以降、日本に支配された地域を指す)。
 その後、日本でも「満洲国」の中国文学の研究が進められていくが、当時の作品の翻訳はまだ少ない。とりわけ、植民地支配と伝統的差別構造におけるジェンダー規範という二重の抑圧の中で生きなければならなかった女性作家たちの言葉は、植民地支配という形での「近代化」によって経験する内部の分裂と葛藤をも含み、さまざまなことを問いかけてくる。
 そして彼女たちの生の軌跡は、私たちの歴史の傷痕をはっきりと映し出し、日中友好の原点に連れ戻してくれるにちがいない。<きし・ようこ 中国文学>

      





      
中国現代文学の翻訳紹介と作家の交流
 ―文化講演会に向けて(NO.826 2015.2.1より)


  中央大学教授 
     飯 塚  容



 
戦後間もなく、米軍占領下の日本で中国現代文学の紹介が始まった。その中心となったのは「中国文学研究会」の同人、竹内好、武田泰淳、岡崎俊夫らである。雑誌『中国文学』の座談会や作家論特集は、今日読み返しても十分面白い。座談会に作家の阿部知二が参加していること、作家論特集に佐々木基一が魯迅について、小田嶽夫が落華生(許地山)について書いていることも注目される。
 雑誌『近代文学』も中国文学に強い関心を寄せていた。宮本百合子による『春桃』(落華生の表題作など、中国作家の短篇七作を収録)に対する書評は大きな反響を呼んだ。また、「中国文学研究会」の竹内好、武田泰淳、千田九一と『近代文学』の荒正人、佐々木基一、埴谷雄高による座談会は、両グループの親密さを物語っている。
 その後、日本で刊行された翻訳全集類の編集においても、作家の関与が見られる。一九六〇年代の『中国現代文学選集』(全二〇巻、平凡社)には中野重治が、八〇年代の『現代中国文学選集』(全一三巻、徳間書店)には野間宏が加わっていた。七〇年代の『現代中国文学』(全一二巻、河出書房新社)に名を連ねる武田泰淳と高橋和巳は、作家でもあり学者でもあるところに重みがあった。
 このように、日本の作家や評論家は一貫して隣国の文学に注目し、敬意を払ってきたのである。武田泰淳から黑井千次日中文化交流協会現会長まで、作家がいかに自身の中国観を作品化したかについては、張競氏『詩文往還 戦後作家の中国体験』という好著が出たばかりだ。作家たちが重ねてきた魂の交流の歴史は複雑で、大変興味深い。
 中国現代文学紹介の第一のピークが戦後の十数年だとすれば、第二のピークは一九八〇年代初めから九〇年代前半までだろう。良好な日中関係と日本経済の好景気が、それを後押しした。まとまった翻訳紹介としては、前述の徳間書店の選集のほかに、『発見と冒険の中国文学』(全八巻、JICC出版局)、『新しい中国文学』(全六巻、早稲田大学出版部)、『現代中国の小説』(全四巻、新潮社)などがあった。
 作家交流の歴史で言えば、日中文化交流協会は長年にわたって作家代表団の相互往来を続けてきた。また、今世紀に入ってからは、「日中女性作家会議」「日中青年作家会議」、日中韓三ヵ国による「東アジア文学フォーラム」という作家交流のイベントが開催されている。政治的な出来事の余波を受けて、思いがけず文化交流事業が突然中止になるなど、依然として中国との付き合いは一筋縄でいかない。何とか粘り強く、日中間の作家交流と作品の翻訳紹介が歩調を合わせて進む環境を作り上げたいものだ。三年ほど前、『コレクション 中国同時代小説』(全一〇巻、勉誠出版)を編集刊行したとき、辻井喬前会長からいただいた推薦の言葉を思い出す。「その国の人を理解するには、その国の人が書いた優れた文学作品を読むに限る」。〈いいづか・ゆとり〉





新しい年の新しい意味(NO.825 2015.1.1より)


 
 日本中国文化交流協会会長
        
黑 井 千 次
 
 
二〇一二年の尖閣諸島をめぐる問題の発生以来、日中両国の関係は悪化を続け、きわめて不安定な状態のまま月日が流れている。このままではどうなってしまうのか、と憂慮していたある日、日中文化交流協会の事務局職員として、一貫して両国の文化交流の仕事に取り組み続けて来た人に会った。年齢のこともあって今は事務局職員を退き、本協会の役員を務めている男性である。
 こんな状態が続いて、この先どうなるのだろう――そう問いかけずにいられなかった。
 ゆったりと笑みを浮かべたその人は答えた。これまでには、もっとひどい状態の時期がありましたよ。それを乗り越えてここまで来たのだから、大丈夫ですよ、今度も。しっかりと取り組んでいきさえすれば、行く手にきっと光は見えて来ます――。
 日中国交正常化の時期から同じ仕事に携わって来たその人の言葉の内には、波風を孕みながらもゆったりと流れ続ける歴史の時間の横顔のようなものが隠されているかに感じられた。個々の出来事に一喜一憂するのではなく、より高い視点から、全体の流れを過たずに掴むことが出来たなら、この先の眺望を得ることも可能であるのかもしれない――不安を抱きながらも、その人の自信たっぷりの言葉に、ほっと息をつくことが出来る思いを味わった。
 また、こんなこともあった。日中関係に深い関心を寄せるある政治家が、我々の仕事として日中関係改善に取り組んで、今具体的な仕事を進めることはなかなか難しいが、文化交流の営みにはそういった障害がないだろう。だからその方面の仕事に取り組んでいる人達は、今可能な文化交流の仕事を積極的に進めてもらいたい、と。
 政治家というものが政治的事情の中で動かざるを得ないのは当然であろうけれど、そして政治が問題を抱えて動きが取りにくくなった時、文化交流面の友好を少しでも進めてもらいたいと考えるのは自然であるのかもしれないが、ただ「政治」と「文化」とを同じ盤の上で動かすゲームの駒の如くに扱う考え方がもしあるのだとしたら、ことはそう簡単ではないことを認識する必要があるだろう。「政治」と「文化」は別のものでありながら、どこかで深くつながっている。人類の長い歴史の中で、政治の結果が文化となり、また文化の力が政治を動かすことも考えられなくはない。
 文化交流が良好な状態で進められている時には、そのあたりの事情は見えにくくなっているのかもしれない。
 しかし国際関係に問題が生じて交流も進みにくいような困難な状況の中でこそ見えてくる課題があり、それへの取り組みが求められているともいえよう。
 明けた年を、困難を乗り越えつつそこに新たな課題を発見し続ける、力のこもった年として受け止めたい、と祈念せずにいられない。〈くろい・せんじ 作家〉